世界のホンダを本気にさせた最強の職人技!! 「ポップヨシムラ」は最高なオヤジさん。
2014年7月4日
鈴鹿8耐優勝マシン : 車体はスズキ・エンジンはヨシムラチューンの”GS1000″
鈴鹿8時間耐久ロードレースはご存知でしょうか?(私もはるか30年前観戦に行った思い出があります。)
世界のトップメーカーとレーサーが8時間後のゴールを目指して走り続ける国内でも最大のオートバイレースです。
このレースでも優勝チームとなっている「ヨシムラジャパン」。
私も若い頃には「ヨシムラ・サイクロン」という集合管を付けてツーリングしました、その頃は ヨシムラ「サイクロン」・モリワキ「フォーサイト」で集合管をどちらにしようか迷っていましたね。(余談ですが)
今では集合管がノーマルでも標準装備されていますから馴染みはあります。(排気音も抑えられていますし…)
しかし昔は集合管からの排気音はとかく煙たがられる存在でしたねぇ。
(ノーマルから変えるので排気音が大きくなるので仕方無いのですが。)
写真:ヨシムラ製の集合管
この集合管を世に知らしめたのは「ポップヨシムラ」こと吉村秀雄さん、世界で初めて集合管を生み出した方なんですよ。
※「ポップ」=敬愛をこめた”オヤジさん”という愛称
集合管のメリットとしては馬力の向上とトルクのムラを解消できる事が望めます。
特攻隊(予科練の前身)を経験し、米兵相手にオートバイ屋をしたり若いころから車両のチューニングには定評があり、すでに「ゴッドハンド」といわれるスゴ腕職人さんで世界にもその名を轟かせていたそうです。
その噂を聞き付けた「ホンダ」はヨシムラ側に自社マシンの開発に携わるよう「GPガレージ」という拠点まで提供してきました。
1965年での日本グランプリレースの際には本田宗一郎にその腕を認められました。
同一マシン(ノーマル時24ps)でもホンダワークスチューンでの出力が27ps、ヨシムラがチューンすると32.7psを叩き出しました。
この結果にホンダサイドは驚愕したそうです、本田宗一郎は自社開発チームに対し激怒したそうです。
さらに相変わらずレースで好成績を叩き出す「ヨシムラ」に対し、ホンダは「ヨシムラ」への部品などの供給を停止してしまいました。
バックアップが滞っていることを本田宗一郎に直談判した「ヨシムラ」の話を聞き、本田宗一郎はさらに自社スタッフを叱責したそうです。
しかしホンダ側はボイコットや体制の変更などで「ヨシムラ」外しにかかったそうです。
その後4輪のレースなどへ活躍の場を移すとホンダとの溝も埋まってきたそうです。
「不慣れな海外進出」や「会社の乗っ取り」、さらには「社屋の火事」で大やけどを負うなど波乱もありました。
1978年の第1回鈴鹿8時間耐久ロードレースでは、スズキGS1000をベースに軽量化のためにギア等のパーツに穴を開けまくりプライベートチームながら参戦したレースで、優勝候補のホンダワークスマシンを抑え勝利する偉業をなしたのです。
ボール盤・ヤスリ・グラインダーなどでの手作業にこだわり、自動制御の工作機械には一切興味を示さない昔ながらの職人気質。
些細なミスでも怒鳴りつける職人魂の怖さもあれば、一旦仕事を離れれば英語でジョークを飛ばす気さくな面も見せたそうです。
レースを「戦争」と言い、マシンを「戦闘機」と位置づけ予選でも本戦でもブッチギリの勝利にこだわっていたそうです。
本田技研工業の関係者は「ワークスチームに無い職人芸のような技術でもって組織に対抗しうるだけの性能を発揮する吉村を評価している。そして、同じレース業界を盛り上げていく仲間として、吉村に対する敬意があればこそ、全力でこれに臨み、勝利を奪いにいかねばならず、そうでなくては申し訳ない、という気持ちで相手をしてきた。」と話すが、町工場から「世界のホンダ」にまで成長させた本田宗一郎氏に憧れ「ホンダ」の仕事に携わったことを誇りに思い、またその大きな相手に対して「自分たちの手技のみ」で挑む事も忘れない吉村秀雄氏のスピリットは「何かを作り出す職業に携わる者」として持ち続けたいですね。
吉村秀雄氏
1922年(大正11年)生まれ、1995年呼吸不全のため永眠、享年73歳。